【エッセイ】外面の私と内面の私
人は常に仮面をかぶっている。
どこかで聞いた言葉だ。人間は当然のごとく誰かと接するときには、その人専用の仮面をかぶるのではないだろうか。
仮面の種類はきっと数千種類に及ぶが、仮面の系統は一人ひとり異なり、その人特有の型があるのだ。
誰に会っても同じ評価を得るのは、きっと別の仮面でも、系統が同じだから。
なかには、人により評価が変わる人間もいて、仮面を百面相のごとく変化させられる。
そんなに器用な人間にはなれないから、皆誰かには好かれ、誰かには嫌われる。
誰にでも好かれる人間は、いない。
けれど、狭いコミュニティーで上位層にいれば、表面上でも人から好かれる。
家庭と外とで態度が全然異なる人間が多いのは、ある種当たり前のことだと私は思う。
外面と内面は異なるし、外では出せない素の部分を、家では出せているのだろう。安らぎを求めて家庭を作り、安定を求めて外で働く。
しかし仮面が割れれば、自らに潜む醜悪な「こころ」が露になる。
人は社会で暮らし家庭を円満にするべく、常に仮面をしていると仮定すれば、仮面が割れれば人としての人格が壊れてしまうのではないだろうか。
人のなかには、守らなければならない秩序や、出してはならない欲望がある。
欲望のままに万引きをしてはいけない、
怒りのままに人を殴ってはいけない、
嫉妬にかられて嫌がらせをしてはいけない、
身体が求めるままに暴飲暴食をしてはいけない。
仮面という名のリミッターが壊れれば、人は人の欲望のままに、誰かを傷つけ、自分を傷つける。
そうしてきっと、後悔する。誰かのために何かをするということは、自分の欲望を制御して相手に与えるということだ。
仮面は修復することができる。
人はいくらでもやり直せる。
人を変えることは難しいが、自分を変えることはできる。
私はよく「真面目」といわれる。外面の私は、きっと「真面目」なのだろう。会話にも文章にも外見にも、にじみ出る「何か」があるのだろう。
私の外面は、きっと今は「真面目」なのだ。それはいつか変わるかもしれないし、一生変わらないかもしれない。
私の内面は、未だ子どものように臆病で脆い。怖いから、人を傷つける。きっと、どんなに強そうにみえる人間も、怖いから誰かを傷つけて、自分を保とうとしているのだ。
人は皆、仮面をかぶっている。
心の内側を隠して、笑っている。
誰もが持つ嫉妬や怠惰などの7つの欲求を、社会のルールによって抑え、自らを保っている。
出会う人が変われば、環境が変われば、人は変わると、私は思う。
環境を変えても、意味がない。そういう人が多いし、その言には不思議と説得力がある。
たしかに、そうかもしれない。逃げるなと避難されるのは、仕方がないかもしれない。
けれど私は、たとえ与えられた場所で一生懸命投げ出さず生き続けることが、本当に正しいことだったとしても、逃げてもいいんだと、言い続けるだろう。
たとえ、あなたはもっと頑張れたのでは?環境を変えても意味ないのでは?誰にそう言われても、それが真実だとしても、それは違うと言い続けるだろう。
逃げてもいいのだ。
次は、もっと頑張れる。
新しい仮面を、また作ろう。